南オセチアの山々

南オセチア


南オセチアは、グルジア北部コーカサス山脈の南側に位置していており、グルジア行政区画ではシダ・カルトゥリ(Shida Kartli)に含まれる。多くのオセット民族が住み、グルジアからの分離を望む南オセチアとグルジアとの間で度々紛争が起き問題になっている。2008年8月には、南オセチアをめぐりロシアとグルジアの間で武力衝突があった。現在も危険な地域だと言える。南オセチア側は独立国として、グルジア側はグルジアの自治州としている。
(グルジア情報サイトに南オセチアが含まれるかどうか賛否両論があるかもしれませんが、国際的に独立は認められていないということで、南オセチアのページもつくりました。南オセチアとグルジア間の問題も重要ですが、そこには素晴らしい人々と景色があることもお伝えできたらと思います。)

旅行前には、外務省の渡航情報をご確認ください。
 

面積

3,900k㎡

人口 

70,000人(2000)

民族

オセット(オセチア)人(イラン系) 66.2%、グルジア人 29.0%、ロシア人 2.2% (1989)

言語

オセット(オセチア)語、グルジア語、ロシア語

州都

ツヒンヴァリ Tskhinvali

宗教

ロシア正教(70%)とイスラム教徒スンナ派(15%)

大統領

エドゥアルド・ココイトゥイ Eduard Kokoity



歴史



6世紀

オセチア人が北コーカサスに移住。

13世紀

モンゴル支配下に。

14世紀

グルジアの一部に。

18世紀

ロシア帝国が領土拡大のため南下、コーカサスへ。

1801

ロシア帝国によって併合。

1917年

ロシアの2月革命後、オセチア議会が創立。ソヴィエト・ロシアへの併合を望むボリシェヴィキがオセチア議会を支配する。グルジア・メンシェヴィキと対立し、死者は5,000人以上とされる。

1918年

グルジアとの分離を宣言。(1918-1921 グルジアは一時的にグルジア民主主義共和国として独立。)

1918-1920

コーカサス地方でいくつもの民族紛争が勃発する中、南オセチアのグルジアへの暴動が活発になる。

1922年4月20日

ソヴィエト・グルジアに編入されるかたちで自治州 (South Ossetian Autonomous Oblast)に。

1920s-1980s

南オセチアとグルジアは平和な関係を築き、結婚など両民族同士の交流が盛んに。

1980年代

ソヴィエトでのペレストロイカ政策によりグルジアで民族主義運動が活発に。南オセチアでもグルジア語教育が実地され、南オセチア人はグルジアに対し不満を募らせ始める。

1988年

南オセチア人民戦線(Popular Front)が創立。

1989年11月10日

南オセチア、北オセチアと統一しソヴィエト・ロシアの一部として自治共和国なることを要求。

1989年11月11日

グルジアは南オセチアの要求を撤回。

1989年11月23日

グルジアのガムサフルディア大統領は、何千の民族主義者を率いて会談のためツヒンヴァリに。それに対し南オセチアは軍を動員し抵抗。南オセチアとグルジアの衝突が勃発するも、ソヴィエト軍によって阻止される。

1990年9月20日

南オセチアはソヴィエトの一部としてグルジアからの分離を宣言。

1990年12月10日

グルジアの承認なしに、南オセチアは独自の選挙を施行。

1990年12月11日

グルジアによって、選挙結果は無効にされ、南オセチアは自治権を剥奪される。その結果、ツヒンヴァリでいくつかの衝突が勃発し、グルジアは非常事態を宣言。

1991年1月5日

グルジア軍がツヒンヴァリに侵入したことにより、南オセチア戦争始まる。

1991年1月29日

南オセチア代表が交渉のためトビリシを訪問するが、ただちに民族的憎悪を扇動したとして逮捕される。(1991年12月に釈放。)

1992年1月

南オセチアで、「独立」に関する住民投票が実施され、92%が独立を支持。

1992年2月

突然、ロシアが南オセチアを援助するかたちで戦争に参加。

1992年5月

グルジアと南オセチア間の紛争が激化し、結果死者3,000人以上と避難民が3万人以上にのぼった。

1992年6月24日

ロシア大統領エリツィンとグルジア国家評議会議長シェヴァルナッゼが南オセチア戦争について対談。

1992年7月14日

ロシア、グルジア及び南オセチア軍で構成される合同平和維持部隊が南オセチアに駐留することを条件に停戦合意。

2008年2月

近隣国のコソボが独立宣言。影響を受け、南オセチアで独立運動が活発に。

2008年8月

8月上旬から盛んになっていた独立運動を抑えるため、グルジア軍がツヒンヴァリに侵入。グルジア-ロシアが激突。欧米も巻き込み、ロシアvs.欧米になりつつある。

2008年8月26日 ロシアは南オセチアの独立を承認。



南オセチア問題とは?

 


南オセチア問題とは?

南オセチアがグルジアからの分離と北オセチアとの統合を求め、南オセチア-グルジア間、グルジア-ロシア間で紛争・武力衝突が起こっている問題。

 

北オセチア共和国とは?

ロシアにある自治共和国。民族はオセット人。スターリンの分割統治政策により、1922年にグルジアに属する南オセチア自治州と1924年にロシアに属する北オセチア共和国に分割された。近隣国イングーシ/チェチェン共和国と領土問題があり、2004年9月にチェチェン独立派が北オセチアで起こしたベスラン学校占拠事件は多数の死者を出した。

 

なぜ、南オセチアは親ロシア・反グルジアか?

北コーカサスには反ロシア民族が多い中、南オセチアは親ロシア民族である。なぜ親ロなのか、いくつかの理由が考えられる。
 
1) 南オセチア人とグルジア人は平和的に暮らしていたが、ロシア革命後、ボリシェヴィキ(*)がオセチアを支配した。グルジアはそれに対立していたメンシェヴィキを支持していたため、20世紀初頭から親ロシア・反グルジアになったと思われる。

* ロシア社会民主労働党(ロシア初の社会民主主義の政党)が分裂しボリシェヴィキとメンシェヴィキが形成された。ボリシェヴィキはレーニン派・社会主義左派、メンシェヴィキは社会主義右派。
  
2) 南オセチア人はロシア正教を信仰している。(他の北コーカサス民族はイスラム教を信仰している。)
 
3) ロシアが南オセチアの分離運動を支援しており、市民の半数以上がロシアの市民権を得ている。
 
4) 1980年代にグルジアで民族主義運動が盛んになり、グルジア文化を強制されたことに反感を持っている。

 

なぜ、ロシアとアメリカは南オセチア問題に関わるのか?

ロシアの理由
1) コーカサス地域にはロシアから独立を望む民族も多く、ロシアは親ロシア派の北オセチアを拠点に民族独立活動に対抗している。そのため、反ロシアのチェチェン独立派は北オセチアの小学校を襲う事件などを起こしている。ロシアにとって、オセチア人を保護することは、自国のコーカサス地域の治安維持を意味するため、南オセチア問題に関わる必要がある。
 
2) アメリカはロシアに対し、「グルジアの領土主権を尊重し、撤退すること」を要求。しかし、2008年2月にセルビア(ロシア人と同じスラブ系民族)の自治州であったコソボ独立の際、ロシアはアメリカとNATOに対し「セルビアの領土主権の尊重」を訴えていた。しかし、アメリカはコソボは特別のケースとして独立を承認。ロシアは、アメリカだけ他国の独立を承認できる矛盾に激怒。コソボが「セルビアがコソボで民族浄化をしている」を理由に独立できたのであれば、南オセチアも独立できるはずと南オセチア紛争に参加し、2008年8月に南オセチアの独立を承認。(しかし、チェチェン問題になるとロシアは、国内問題で他国の深入りを非難している。)
 
3) ロシアはグルジアが最初に南オセチアを攻撃したと主張している。そのため「自国民を守る」を理由に南オセチア以外のグルジア各地でロシアの勢力を見せつけることができた。ポチ(石油等エネルギー供給のための黒海の寄港地)、首都トビリシ国際空港の軍事的部分、BTCパイプラインを攻撃することにより、グルジアの経済力弱化と欧米へ原油輸出量の縮減にも成功した。
 
4) 「なぜ、ロシアとアメリカはグルジアに関わるのか?」へ

アメリカの理由
1) 南オセチア紛争が起こったことにより、近隣の旧社会主義国にロシアの脅威を感じさせることができた。その結果紛争直後、2008年8月14日、ポーランドがアメリカのミサイル防衛(MD)の施設を配備することに合意した。(アメリカはこの防衛施設配備についてロシアに相談しなかったため、ロシアの反感をかっている。)
 
2) アメリカはメディアを通して「ロシア=悪」というイメージを世界に発信できた。
 
3) グルジアとロシアの国境近くに2014年冬季オリンピック開催地ソチがある。オリンピックを前にロシアに不利な状況を作ることにより、ロシアに対して有利な外交政策がとれる可能性がでてくる。
 
4) 「なぜ、ロシアとアメリカはグルジアに関わるのか?」へ 

 

2008年8月の南オセチア紛争について

ロシアvs.アメリカの新冷戦とも表現されているが、グルジアはその両国の激突に巻き込まれたのか?グルジアもその両国の激突を利用しているのか・・・?
 
グルジアが最初に攻撃した?
ロシアは「グルジアが初めに南オセチアの住民を虐殺し、州都ツヒンヴァリを制圧した」と主張し、ロシアの攻撃は自国民を守る対抗処置としている。しかし、欧米・日本のメディアは、グルジア軍のツヒンヴァリ制圧をニュースで取り上げるも、グルジアから仕掛けた紛争とは報じてはいない。8月8日のツヒンヴァリ制圧以前に、ロシアがグルジアに攻撃を開始していたと一部報道では言われている。また、真実かどうかわからないがロシアが主張する「グルジアによる大虐殺」の報道も無視することはできない。南オセチア問題は以前からある問題で、今回の紛争の発端を明示することは不可能と言えるだろう。
 
グルジア軍とロシア軍の比較
南オセチアを攻撃すればロシアが紛争に参加してくるということは過去の紛争から予期できることであり、何倍の軍事力をもつロシアを相手にグルジアが単独で紛争を起こしたとは考えにくい。

グルジア

ロシア

総兵力

26,900

戦車 (T-72) 

82

その他の武装車

139

戦闘機 (Su-25)

7

ロケット弾など

95

総兵力

641,000

戦車(多種)

6,717

その他の武装車

6,388

戦闘機 (多種)

1,206

ロケット弾など(多種)

7,550

 

8/10/2008 BBCより引用


グルジアが大きな行動にでるときは、いつもアメリカの存在が見え隠れしている。例えば、グルジアのNATOへの加盟はアメリカの支持の下で表明され(仏独は支持しなかった)、「バラ革命」もアメリカが後押ししたと言われている。また、今回の紛争も、8月28日プーチン首相は遠まわしに、米大統領候補であるマケインを選挙で有利にするために、アメリカの陰謀によるものだと発言した。マケインはブッシュ大統領と同じ共和党でロシア嫌いでも有名な人物である。グルジアはアメリカに扇動されたのだろうか・・・。
 
ニュースの矛盾
上記で述べたように、ロシア側と欧米側では真逆の内容で今回の紛争について報道されている。日本でもアメリカに不利なニュースはあえて報道していないところがある。一つの出来事も各国の歴史の教科書では違った表現がされているように、また、北京五輪の開会式の花火がCGであったり、残念ながら報道に偏りや偽りがあることを認識する必要がある。また、今回の紛争にあたり、ロシアもグルジアも、メディアを通して自国の立場を世界へアピールする部分が多くみられる。両者ともにインタビューで母語ではなく英語で語っているのはそのためであろう。ニュースを見る私たちが、何が真実なのか判断する必要がありそうだ。

紛争はそれぞれの立場があり、一つの事実が何通りにも語られる。ただ、現実にわかっていることは、グルジア人にもオセチア人に多くの死者、避難民が出ており、ロシア人にも被害がでている。一刻も早く、話し合いで民間人が平和に暮らせるようになることを願う。


観光ガイド


ツヒンヴァリ Tskhinvali
南オセチアの首都。トビリシから約100キロ。